おふでさき第二号(その6)
今回は三一首目から進めます。
三一 これからハからとにほんのはなしする なにをゆうともハかりあるまい
これからはカラと二ホンの話しする 何を言うとも分かりあるまい
三二 とふぢんがにほんのぢいゝ入こんで まゝにするのが神のりいふく
トウジンが二ホンの地い入り込んで ままにするのが神の立腹
三三 たん〳〵とにほんたすけるもよふだて とふじん神のまゝにするなり
段々と二ホン助ける模様立て トウジン神のままにするなり
三四 このさきハからとにほんをハけるてな これハかりたらせかいをさまる
この先はカラと二ホンを分けるでな これ分かりたら世界治まる
三五 いまゝでハ上たる心ハからいで せかいなみやとをもていたなり
今までは上たる心分からいで 世界並みやと思ていたなり
三六 これからハ神がたいない入こんで 心すみやかわけてみせるで
これからは神が体内入り込んで 心すみやか分けて見せるで
(三一~三七 要約)
これから悪人(とうじん)と善人(にほんじん)の話しをするが、恐らく理解が難しい事であると思う。とうじんがにほんじんの住む土地に土足で入り込むような事が神としては我慢出来ない。そこで神としてはにほんの土地に住む者を助けるため、そこに入り込んで来ようとするとうじんを神の意のままにする。
しかし誰が悪人でだれが善人か、と言う事については曖昧なところがあり、今後はそこのところをはっきりと区別したい。この悪人、善人、つまりとうじん、にほんじんについて理解出来たならば世界は治まるのである。
これまで(教祖の)傍にいる者達も天理の教えが本当には理解できないで、世間一般のはやり神のようにしか思っていなかった。しかしこれからはその体内に神が入り込んで病のように印を見せることで、この教えがその辺のはやり神とは根本的に違う事をはっきりと示して見せるつもりである。
(考察)
から(唐)とにほん、これは親神様の心と人間の心の距離を表している言葉と考えられます。天理教ではよく”成人”という言葉を使いますが、これは文字通り親神様の心に近づけばそれは大人に近づくと言う事であり、そこから遠い心であればそれはまだ子供、と言う事なのです。「早く成人しなさい」と言うのは「早く大人になりなさい」という事です。
要約では、とうじん=悪人、としましたが、これは、とうじん=子供、でも良いかと思います。立派に大人になった人々の中にやんちゃな子供が割り込んできてめちゃくちゃにして行く、そうして大人のする事を妨害するような子供には親は我慢が出来ない、そう言ったニュアンスではないでしょうか。
ただしここでの大人、子供、と言うのはあくまで心の話しで、見た目が大人でも心が子供であればそれは親神様から見れば皆子供、即ちとうじんであると言えます。そういったとうじんと言う人は、世間の人々だけではなく教祖の傍にいる人々であっても例外ではない、つまり当時の教祖の傍にいる人々でさえ、天理の教えと言うのはその辺のはやり神様の教えの一つのように考えてしまっていた、だから親神様としてはそのように考えている傍の人々の心の成人を促す意味で、その身体に病と言う姿に表して、その心の反省を促された、これがこの部分の歌の意味ではないかと思います。