おふでさき第二号(その7)

今回は三七首目よりスタートします。

 

三七 にち〳〵によりくる人にことハりを ゆへばだん〳〵なをもまあすで

    日々に寄り来る人に断りを 言えば段々尚も増すで

 

三八 いかほどのをふくの人がきたるとも なにもあんぢな神のひきうけ

    如何程の多くの人が来るとも 何も案じな神の引き受け

 

三九 めつらしいこのよはじめのかんろたい これがにほんのをさまりとなる

    珍しいこの世初めの甘露台 これが二ホンの治まりとなる

 

四〇 高山に火と水とがみへてある たれがめへにもこれがみへんか

    高山に火と水とが見えてある 誰が目にもこれが見えんか

 

四一 たん〳〵といかなはなしもといてある たしかな事がみゑてあるから

    段々と如何な話しも説いてある 確かな事が見えてあるから

 

四二 しやハせをよきよふにとてじうぶんに みについてくるこれをたのしめ

    幸せを良きようにとて十分に 身に付いてくるこれを楽しめ

 

四三 なにもかもごふよくつくしそのゆへハ 神のりいふくみへてくるぞや

    何もかも強欲尽くしそのゆえは 神の立腹見えて来るぞや

 

四四 たん〳〵と一五日よりみゑかける 善とあくとハみなあらハれる

    段々と十五日より見えかける 善と悪とは皆表れる

 

四五 このはなしとこの事ともゆハんてな みへてきたればみなとくしんせ

    この話し何処の事とも言わんでな 見えて来れば皆得心せ

 

四六 高山のにほんのものととふぢんと わけるもよふもこれもはしらや

    高山のニホンの者とトウジンと 分ける模様これも柱や

 

四七 とふじんとにほんのものとハけるのハ 火と水とをいれてハけるで

    トウジンとニホンの者と分けるのは 火と水とを入れて分けるで

 

 

(三七~三九要約)

毎日屋敷に寄って来る人々に天理の教えを伝えることで、更に多くの人々が寄ってくるようになるが、そのようになっても何も心配する事はない。全て神が引き受けるのであるから。

そして屋敷にかんろだいが作られればこれが成人した人間の心の拠り所となり、世界を治める真となるのである。

 

(四十~四二要約)

ところでみんなには今の権力者と言われている者の周りに神の姿が見えないか?

親神はこの屋敷で、皆の目に見えない先の事も話してきたが、それは親神の目には全て見えているから話してきたのである。だから権力者の事などは気にせず、身についてきた幸せというものを心から楽しんでくれ。

 

(四三~四七要約)

しかし反対に強欲という強欲を尽くしたならば、親神の立腹した姿というものが見えてくるようになる。その一つの例がこの15日から段々と皆の目にも見えるようになる。この話がどこの誰の話しとは言わないが、その姿が見えてきたら、成程と得心してもらいたい。そしてその姿のように善と悪の姿というのは必ず現れる事を理解してもらいたい。

権力者の中にいる悪人(子供)と善人(大人)を分けるのは柱(かんろだい)、即ち親神(火と水)である。

 

 

 

(考察)

まず四四首目について触れたいと思います。この歌は当時教祖の傍にいた松尾市兵衛という高弟に対しての歌と言われています。正確には松尾市兵衛の長男に対しての歌であったそうです。この松尾市兵衛という高弟は、自分に対する教祖のお話を素直に受ける事が出来ない理屈っぽい人だったそうで、結果その長男、松尾楢蔵を3月15日に迎え取らなければ(出直さなければ)ならなくなった、という事だそうです。

このように教祖の傍にいる者であっても、その心が親神様の想いに沿わない子供のような心(とうじん)のままでいるのであれば、火と水、即ち親神様の働きでにほんのものではない、とうじんである、とはっきり突きつけられる、これがこの号の最後の歌である四七首目の一例であると言う事なのでしょう。

 

次に四六首目に出てくる「高山」について考えたいと思います。一般におふでさきで高山と出てくると、それは当時の明治政府であったり或いは教祖の反対勢力を指す言葉として認識されています。しかし前述のように四四首目では松尾市兵衛という教祖の傍にいた人物の話をしていて、そこから急に当時の明治政府や官憲といった人々の話が出てくると言うのは何か不自然に感じます。この事から少なくともここで出てくる高山とは、教祖の傍にいた人々と解釈すべきではないでしょうか。

そうすることでここのお歌の意味を「当時教祖の傍にいた人々はまだまだ天理の教えをこれまでの神、仏の教えと同じように考えていた、その事を親神様としてははがゆく思われ、これまでの信仰対象とは全く違う神である」事を明確に示されたと考えるのが良いのではないかと思います。