おふでさき第二号(その5)
今回は二五首目から始めます。
二五 高山のをいけにハいた水なれど てバなハにこりごもくまぢりで
高山のお池に湧いた水なれど 出端は濁り芥混じりで
二六 だん〳〵と心しづめてしやんする すんだる水とかハりくるぞや
段々と心鎮めて思案する 澄んだる水と変わりくるぞや
二七 山なかのみづのなかいと入りこんで いかなる水もすます事なり
山中の水の中いと入り込んで 如何なる水も澄ます事なり
二八 にち〳〵に心つくするそのかたわ むねをふさめよすゑハたのもし
日々に心尽くするその方は 胸を治めよ末は頼もし
二九 これからハ高山いけいとびはいり いかなごもくもそふぢするなり
これからは高山池い飛び入り 如何な芥も掃除するなり
三〇 こもくさいすきやかだしてしもたなら あとなる水ハすんであるなり
芥さいすきやか出してしもたなら 跡なる水は澄んであるなり
(二五~三〇 要約)
高山の考えは芥、埃混じりのものである。そのような考えに基づいた世の中の支配と言うのは親神の教えとは完全に反する。しかしそのような考えの者であっても、心を静めて親神の話を聞くならばその心はだんだん清らかとなってくるであろう。親神はこれからそのような険しい場所へも入って行き、如何に心の不浄な者であっても必ずその心を澄ますよう働く。
そうして日々親神に心を尽くすようになれば、その者は以後親神にとって非常に頼もしい存在となる。
よってこれから親神はそういった高山へと積極的に働きかけ、どんなに汚れ切った者の心をも掃除を行い、澄んだ水の如き心へと入れ替えるよう働きかけていく。
(考察)
ここの個人的な解釈は公式本と少し異なります。公式本では二五首目の「高山」とは、人間の生まれたての頃の心、と言った比喩表現として考えられているようです。そのためこの部分の歌は教祖の傍の人々に向けられたお言葉として考えているようです。一方小生は、三一首目以降の展開を考えたときに、ここは素直に「高山」=「当時の政治、権力者」と考えて解釈を進めてみました。こうすることでこの後への繋がりがスムースに感じられるのではないかと考えます。
ただしいずれにしても親神様としては、人間の心に積もった埃、ゴミ(芥)を早く取り除いて清浄な心を取り戻してほしい、といった想いで発せられた歌ではないかと思います。