おふでさき第一号(その4)

前回はおふでさき第一号の二十一~四十四首目までを述べてきました。今回はその続きです。

 

 

四十五 よろづよのせかいぢふうをみハたせバ みちのしだいもいろ〳〵にある

      万世の世界中を見渡せば 道の次第も色々にある

 

 

四十六 このさきハみちにたとえてはなしする どこの事ともさらにゆハんで

      この先は道に例えて話しする 何処の事とも更に言わんで

 

 

四十七 やまさかやいばらぐろふもがけみちも つるぎのなかもとふりぬけたら

      山坂や茨畔も崖路も 剣の中も通り抜けたら

 

 

四十八 まだみへるひのなかもありふちなかも そこをこしたらほそいみちあり

      まだ見える火の中もあり淵なかも そこを越したら細い道あり

 

 

四十九 ほそみちをだん〴〵こせばをふみちや これがたしかなほんみちである

      細道を段々越せば大道や これが確かな本道である

 

 

五十 このはなしほかの事でわないほとに 神一ぢよでこれわが事

      この話他の事ではない程に 神一条でこれ我が事

 

 

[四十五一~五十首 説明と要約]


(四十五~五十)

世界中を見渡してみれば道と言うものは色々にある。ここでは人生を道に例えて話をする。急な山や坂、茨の道、崖道、更には剣の上を歩くような道を通り抜けたら、その先にはまるで炎に包まれたような場所や淵のような深い場所がある。そこを超えるとようやく細い道があり更にそこを進んでいくと大きな道が表れる。これが陽気暮らしへと繋がる本道なのである。
これは他人事ではなく神一筋に進む者全てに対する話しである。

 

 

 

五十一 いまゝでハうちなる事をばかりなり もふこれからハもんくかハるぞ

      今までは内なる事をばかりなり もうこれからは文句変わるぞ

 

 

五十二 よろづよにせかいのところみハたせど あしきのものハさらにないぞや

      万世に世界の所見渡せど 悪しきの者はさらに無いぞや

 

 

五十三 一れつにあしきとゆうてないけれど 一寸のほこりがついたゆへなり

      一列に悪しきと言うて無いけれど 一寸の埃が付いた故なり

 

 

五十四 このさきハ心しづめてしやんせよ あとでこふくハいなきよふにせよ

      この先は心静めて思案せよ 後で後悔無きようにせよ

 

 

五十五 いまゝてハながいどふちふみちすがら よほどたいくつしたであろをな

      今までは長い道中道すがら 余程退屈したであろうな

 

 

五十六 このたびハもふたしかなるまいりしよ みへてきたぞへとくしんをせよ

      この度はもう確かなる参り所 見えて来たぞへ得心をせよ

 

 

五十七 これからハながいどふちふみちすがら といてきかするとくとしやんを

      これからは長い道中道すがら 説いて聞かするとくと思案を

 

 

[五十一一~五十七首 説明と要約]


(五十一五十七)

今までは屋敷の中の話しばかりをしてきたが、これからは世の中、世界の事を話する。
世界中の人間について、悪人と言うものは一人もいない。皆が悪人と言っているのは、その心に一寸埃がついたようなものなのである。
しかしここからは良く心を静めて考えて後で後悔がないようにしてもらいたい。
これまでの長い道、人間が誕生してからこれまでの間には様々な苦労、うんざりする事が沢山あった事だろう。しかしこの度は確かな参拝所、この世界を創造した神のいる場所が出来た。この事を良く心に留めてほしい。そしてこの場所でこれからの人間の進むべき道をしっかりと聞かすからよくよく思案をしてくれ。

 

 

 

 

 

五十八 このさきハうちをおさめるもようふだて 神のほふにハ心せきこむ

      この先は内を治めるもよう立て 神の方には心急き込む

 

 

五十九 だん〴〵と神のゆう事きいてくれ あしきのことハさらにゆハんで

      段々と神の言う事聞いてくれ 悪しきの事はさらに言わんで

 

 

六十 このこ共二ねん三ねんしこもふと ゆうていれども神のてはなれ

      この子供2年3年仕込もうと 言うていれども神の手離れ

 

 

六十一 しやんせよをやがいかほどをもふても 神のてばなれこれハかなハん

      思案せよ親が如何ほど思っても 神の手離れこれは敵わん

 

 

六十二 このよふハあくしまじりであるからに いんねんつける事ハいかんで

      この世は悪事混じりであるからに 因縁付ける事はいかんで

 

 

[五十八一~六十二首 説明と要約]


(五十八六十二)

親神としては屋敷内を治める事に心が急いている。だから親神の言う事は一つ残らず聞いて欲しい、悪い事は決して言わない。
(親神が何を言っているのかと言えば、これはお秀の事である。) お秀を2年3年花嫁修業させて仕込もうと(秀司は)考えているようであるが、それが親神の思惑と異なれば親(秀司先生)はどうする事も出来ないであろう。この世には悪事が蔓延っており、それが元での因縁をつける事はしてはならない。


以前におちゑさんとその子供の音二郎さんの事を述べましたが、それ以前に秀司先生にはおやそさんという方と内縁関係にあり、二人の間にお秀さんという子供がおり、このお歌が読まれた時には既に結婚を考える年齢にまで成長されていたとの事、つまりお屋敷には教祖、こかん様、秀司先生、おちゑさん、音二郎さん、お秀さんの6人が、端から見ると家族のように住まわれていた事になります。ここのお歌はそのような屋敷内の様子を頭に入れておかないと理解が難しい部分です。

 

 

 

六十三 わがみにハもふ五十うやとをもへとも 神のめへにハまださきがある

      我が身にはもう五十やと思えども 神の目にはまだ先がある

 

六十四 ことしより六十ねんハしいかりと 神のほふにハしかとうけやう

      今年より六十年はしっかりと 神の方にはしかと請け合う

 

 

六十五 これからハ心しいかりいれかへよ あくじはろふてハかきによほふ

      これからは心しっかり入れ替えよ 悪事払うて若き女房

 

 

六十六 これとてもむつかしよふにあるけれど 神がでたならもろてくるそや

      これとても難しいようにあるけれど 神が出たなら貰て来るぞや

 

 

六十七 にち〳〵に心つくしたそのゑは あとのしはいをよろづまかせる

      日々に心尽くしたその上は 後の支配を万任せる

 

 

六十八 五人あるなかのにゝんハうちにをけ あと三人ハ神のひきうけ

      五人ある中の二人は内に置け 後の三人は神の引き受け

 

 

六十九 よろづよのせかいの事をみはらして 心しづめてしやんしてみよ

      万世の世界の事を見晴らして 心静めて思案してみよ

 

 

七十 いまゝても神のせかいであるけれど なかだちすハ今がはじめや

      今までも神の世界であるけれど 仲立ちするは今が初めや

 

 

七十一 これからハせかいの人ハをかしがる なんぼハろてもこれが大一

      これからは世界の人は可笑しがる なんぼ笑てもこれが大一

 

 

七十二 せかいにハなに事するとゆうであろ 人のハらいを神がたのしむ

      世界には何事すると言うであろ 人の笑いを神が楽しむ

 

 

七十三 めへ〳〵のをもふ心ハいかんでな 神の心ハみなちがうでな

      銘々の思う心はいかんでな 神の心は皆違うでな

 

 

七十四 せんしよのいんねんよせてしうごふする これハまつだいしかとをさまる

      前生の因縁寄せて守護する これは末代しかと治まる

 

 

[六十三一~七十四首 説明と要約]


(六十三七十四)

(秀司先生自身は)もう50歳かと思うかもしれないが、親神から見ればまだまだ先がある。今年より先60年は親神が保証する。だから心をしっかり入れ替えて悪事を払い若い女房(まつゑさん)をもらうようにせよ。若い女房をもらうなどと言った事は難しいように思うであろうが、親神が働けばもらってくることなど大した事ではない。そして夫婦で日々親神に心を尽くすのであれば屋敷の取り締まりを全て任せたいと思う。
ところで(まつゑさんの実家には5人の子供がいるが)5人のうち2人は小東家に置いて良いが、あとの3人は神の用事に使う。
世の中を見渡して良く考えてみよ。この世界は神の世界であるが、今回のように夫婦の仲立ちをするのは初めての事である。この結婚に対して世の中の人間は可笑しく思う事であろうが、しかしそんな笑いを神は楽しんでいるのである。人間の想いと親神の想いとは違うのでそれは致し方ない事である。親神は夫々の人間の前世因縁について考えた上でお互いに引き寄せており、それによって助けの道を付け、それが末代に渡り治まる道なのである。

 

まつゑさんは親神が人間を創造する際の切る道具である「たいしょく天の命」の魂をもった方とされています。つまり屋敷内には人間創造時に人間を創るための道具衆の魂をもった者だけを住まわし、その人々がかぐらつとめを行う事により世界を助けるという親神様の構想を実現するべく、先のお秀さんやおちゑさん、音二郎さんと言った人間創造に関わっていない人間は屋敷から出さなければならなかった。もう少し突っ込んで考えると、親神様の元々の考えとしては中山家には人間創造時の道具衆だけを集めたかったが、秀司先生のほこり心から次々と関係のない人間を屋敷内に入れる事となってしまい、結果としてこのタイミングでそれらの人々を屋敷から出さなければならなくなった、と言う事なのでしょう。
おふでさきに書かれてある内容を追ってくるとこのような解釈になるかと思います。
しかし個人的にはここでいくつかの疑問が湧いてきます。
①そもそも親神様はなぜ秀司先生とおやそさんやおちゑさんとの間に子供を宿されたのか? これは親神様の働きによるものですよね?
②まつゑさんが何故もっと早くに生まれてこられなかったのか? 秀司先生が早くにまつゑさんと知り合う事が出来ていればこのような事にはなっていなかったのではないか?

このような疑問に答えられる方がいらっしゃればぜひ教えて頂きたいと思います。