おふでさき第一号
おふでさきはその殆どがひらがなで書かれており、かつ現在は全く用いない仮名づかいが使われているため、読むこと自体が難しく感じられます。そこで原文の次に、小生の解釈で現代文風に漢字を交えて書き換えたものを付け加えました。これにより難しく感じられる「短歌」を少しでも読みやすく感じて頂ければ幸いです。
まず第一号です。第一号には74首のお歌が含まれています。
明治二年正月
一 よろつよのせかい一れつみはらせど むねのハかりたものハないから
よろづよの世界一列見晴らせど 胸の分かりた者はないから
二 そのはづやといてきかした事ハない なにもしらんがむりでないそや
その筈や説いて聞かした事は無い 何も知らんが無理でないぞや
三 このたびハ神がをもていあらハれて なにかいさいをといてきかする
この度は神が表へ現れて 何か委細を説いて聞かする
四 このところやまとのしバのかみがたと ゆうていれども元ハしろまい
この所大和のぢばの神館と 言うていれども元は知ろまい
五 このもとをくハしくきいた事ならバ いかなものでもみなこいしなる
この元を詳しく聞いた事ならば 如何な者でも皆恋しなる
六 きゝたくバたつねくるならゆてきかそ よろづいさいのもとのいんねん
聞きたくば訪ね来るなら言うて聞かそ 万委細の元の因縁
七 かみがでてなにかいさいをとくならバ せかい一れつ心いさむる
神が出て何か委細を説くならば、世界一列心勇むる
八 いちれつにはやくたすけをいそぐから せかいの心いさめかゝりて
一列に早く助けを急ぐから 世界の心勇め掛かりて
[ 一~八首 説明と要約]
お歌の前に「明治二年正月」とありますが、これはおふでさき第一号が書かれた時期を表します。
この間のお歌は「みかぐらうた」のよろづよ八首と一緒です。「みかぐらうた」もまた教祖の口を通して親神、天理王命様が仰られた言葉なのですが、みかぐらうたには曲がついており、その曲に合わせて鳴り物と呼ばれる楽器と共に演奏が行われ、これが所謂おつとめ、と言われる天理教にとっては最も大切な行いの一つとなっています。
ところでこの一首目から八首目の内容についてですが、
一、世界中見渡しても神の思い(胸)を知った者はいない。
二、それもそのはずで、そんな事はこれまで聞かした事がないのであるから無理のない事である。
三、しかしこの度神が表に表れたのであるから、神が直々にこの想いを打ち明けたいと思っている。
四、この場所を「ぢば」と言い神の館と言っているが、何故そのように言うのか、その根本の理由を知っている者はいないであろう。
五、この根本の理由について聞いたならば、どんな者であってもこの場所が恋しくなるはずである。
六、聞きたければこの世の元初まりについての話をいくらでも聞かせたいと思っている。
七、神が直々にこの世元初まりの話をきかせたならば、必ず世界の人間は心が勇むに違いない。
八、神は世界の人間を一人残らず助けたいと思っているのであるから、早く世界の人間の心を勇めに掛かりたいのである。
以上のようになるかと思います。
天理教の初まりは天保9年(1838年)10月26日と言われています。この日に当時の大和の国、庄屋敷村の一農婦であった中山みき様(教祖)に親神、天理王命様が天下り、親神様が教祖の体をその社と定められました。これが「神が表にあらわれた」事を意味すると言って良いでしょう。親神様は人間にその想いを伝えようとしても口がないので直接人間に語り掛けることは出来ませんでした。しかし人間を創造されるにあたり、その道具として働いてくれた者達との約束によって、天保9年10月に予め表にあらわれる事を言われていたのです。
親神様が人間創造を開始してからこの天保9年10月までの間、親神様は表には現れられず、その想いはその時その時において聖人君子と言われる人々によって少しずつ伝えられて行ったと言われています。それがキリスト教であったり仏教であったり、あるいはイスラム教であったり、と言ったことなのでしょう。
天理教が「最後(だめ)の教え」と言われる所以はここにあります。何が最後(だめ)なのかと言えば、親神様が人間の親である、と教えている事にあります。
つまり予め決められた時(天保9年10月)に、人間を創めた親が直々に人間を創めた場所(大和のぢば)にあらわれて、何故人間をはじめようとしたのかを詳細に語る、この事を聞いたならば、これまで闇雲に生きてきた人間は、その生きる目的を知ることで明るく生きていけるようになる、親(神)としては早く子供である人間たちを勇めたい、これが一から八首の要旨になるかと思います。
ちなみに教祖、中山みき様の魂は、親神様が人間を創造されるにあたり、その道具として働いた者達のうち、女雛型であるいざなみのみことです。